東京高等裁判所 昭和47年(ネ)2319号 判決 1981年5月27日
控訴人
甲野花
右訴訟代理人
八塩弘二
外三名
被控訴人
甲野一郎
右訴訟代理人
永野謙丸
外五名
主文
原判決を取消す。
被控訴人の請求を棄却する。
訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。
事実《省略》
理由
一<証拠>を総合すれば次の事実が認められる。
1 控訴人と被控訴人とは昭和二一年五月一〇日結婚式を挙げ、昭和二七年一〇月一〇日に控訴人の氏を称する婚姻届をした夫婦であること、
2 被控訴人は父乙山太郎、母タミヨの三男として大正三年一月一二日出生し、昭和一三年三月東京帝国大学文学部英文学科を卒業し、昭和一四年中に陸軍に召集され、旧満洲や南方戦線に赴き、同一七年頃ビルマにおいて病にたおれ内地に送還されて肺結核との診断を受け善通寺陸軍病院に入院したこと、その後昭和一九年八月退院すると共に召集解除となつて徳島中学校の教員となつたが、昭和二一年六月再び肺結核を患つて徳島療養所に入院し、昭和二二年四月岡山療養所に転院した後、昭和二六年一〇月頃退院して一時岡山県立津山商業高等学校の講師をした後、昭和二七年四月に私立美作短期大学助教授となり、昭和三三年四月に上京して私立明治大学に奉職し講師、助教授を経て教授となつたこと、
3 控訴人は父甲野大助、母シズの長女として大正六年五月一〇日出生し、昭和一二年三月東京家政専門学校を卒業して旧制中等学校教員免許状を受け、昭和一四年三月鹿児島県立宮之城農蚕学校教諭となつて、その後徳島県、沼津市等において、旧制中等学校、新制高等学校の教員を続け、昭和二九年四月には岡山県立新見高等学校に、昭和三一年四月同県立日本原高等学校にそれぞれ教諭として勤務し、病気による一時退職、休職等の期間を除き、昭和三四年三月まで継続して教員生活を送り、さらに昭和三六年四月には東京都立赤羽台高等学校講師となり、その後も現在に至るまで東京都内において高校教師として勤務していること、
4 被控訴人の父乙山太郎、控訴人の父甲野大助はいずれも徳島師範学校を卒業して旧制中学校の教員をしていたが、被控訴人は東京帝国大学文学部に在学中、同学部に在学していた控訴人の兄甲野一男と親交を結び、当時東京都中野区に居住していた控訴人らの家をしばしば訪問し、卒業後も一男の結婚式に参列するなど一男を通じて控訴人ら一家とも親しく交際し親密の度を深めていたこと、
5 しかるに今次世界大戦の推移と共に被控訴人は前記のごとく召集を受けて戦地に赴き、控訴人の兄一男もまた召集を受けて従軍中同人は昭和一七年一月頃フイリッピンの戦場において戦死を遂げるに至つたこと、そして被控訴人は前記のごとく病を得て善通寺陸軍病院に入院中、当時広島県呉市の中学校に勤務していた控訴人の父甲野大助が見舞に立寄り、学友の一男の戦死を知らされると共に、一人息子を失つた父親の悲しみを聞かされ、その際大助から被控訴人に対し控訴人との結婚話を持出されたが、病気入院中の被控訴人は一旦これを断つていたこと、
6 その後大助がその郷里徳島市に戻り、控訴人も沼津市での教員生活を打切つて帰郷していたところ、被控訴人も前記のごとく退院し、両親と共に徳島市に居住し、徳島中学校に勤務することになり一男の墓参をするなど再び控訴人の一家と交際を続けるうち、あらためて控訴人の父大助から被控訴人に対し控訴人との結婚話が持出されて被控訴人もこれを承諾し、昭和二〇年五月頃両者の両親も立会つて婚約を結ぶに至つたこと、
7 しかして控訴人と被控訴人とはその後親しく交際し、そのうち終戦に至つたところ、大助が昭和二〇年八月一六日死亡し、控訴人も父の急死に伴う精神的衝撃等も手伝つて肺門淋巴腺炎を患つたり、父の死亡によつて家督相続人となつたりしたため、控訴人と被控訴人との結婚式はのびのびとなり、一時は控訴人ら甲野家側から婚約解消の申入れまでなされたものの、当事者双方及びその父母らが再三話合つた結果、昭和二一年三月頃、被控訴人の父太郎の存命中は被控訴人が主として乙山家の面倒を見、死亡後は両家を一体としたような形で両者相互に協力し、被控訴人は甲野家の婿養子となつて甲野家の氏を称することとする等の合意をなし、昭和二一年五月一〇日漸く両家のみの立会で結婚式を挙げるに至つたこと、
8 控訴人と被控訴人とは右のような曲折を経て結婚式を挙げたものの被控訴人には老父母が、控訴人にも老母があるうえ、戦後の食糧事情、住宅事情等もあつて、各自の生活は別個に行い、かつ同居もしないまま週二、三日位宛控訴人が被控訴人方を訪れたり、被控訴人が控訴人方を訪れたりするという変則的な夫婦生活を営むほかなかつたこと、
9 しかるに結婚式を挙げて間もない昭和二一年六月一一日頃被控訴人は肺結核を再発し、同月二五日頃徳島療養所に入院したが、診断の結果、肺上葉に二つの空洞のある重篤な症状であることが判明したため被控訴人は肉体的にも精神的にも大きな衝撃を受け将来に対する望みも失つて一時は控訴人との前記内縁関係の解消さえ考えたこともあつたこと、他方控訴人は結婚式後間もなく被控訴人が病に倒れたため、実母シズと被控訴人の老父母との面倒を見なければならない状態に陥り経済的にも精神的にも重大な苦境に立たされることになつたが、被控訴人に対する愛情に支えられて毎日のように被控訴人を見舞い、殊に食糧事情の著しく悪い時期であつたにもかかわらず卵、肉類等病人の栄養摂取に不可欠な食糧品を入手持参して献身的に被控訴人の看護に努めたこと、しかしながら被控訴人の病状は容易に好転しなかつたこと、そこで控訴人はさらに設備の整つた施設で被控訴人を療養させたいと考え、昭和二二年四月被控訴人に対し岡山療養所に転所することを勧めたところ被控訴人も右の勧めに従い同療養所に転所し、その後間もなく父太郎が死去したため母タミヨが被控訴人の附添看護にあたることになつたこと、
10 控訴人は当時徳島市に母シズと同居し昭和二二年五月頃から徳島県立名西高等学校の教員として勤務していたが、折を見ては岡山まで被控訴人の見舞に訪れ、時には小遣銭なども送金し、ことに同年五、六月頃に被控訴人が開胸手術を受けた際には前記勤務を休んで附添つたばかりか、被控訴人のために自ら輸血用の血液を提供し、手術後約一〇日間に亘つて文字どおり不眠不休で看護にあたつたこと、
11 その後被控訴人は母タミヨ及び控訴人の看護を受けて療養を継続した結果昭和二六年一〇月頃漸くにして病気も治癒したため岡山療養所を退院し、同月二二日頃から岡山県立津山商業高等学校の非常勤講師となつて岡山県津山市内に居住することになつたが、当初は単身赴任し、その後間もなく母タミヨが同居することになつて同市内に居を構え、前記のとおり翌二七年四月から美作短期大学助教授となつたこと、他方控訴人は昭和二四年七月から城西高等学校に勤務していたが、被控訴人が美作短期大学助教授に就任するまでの間被控訴人の依頼に応じて送金するなど同人を援助し、昭和二六年一二月頃には徳島市内に建物を新築し被控訴人との同居を期待していたこと、
12 しかしながら被控訴人の母タミヨは前記のごとく一旦は被控訴人が控訴人と婚姻し控訴人の氏を称することを承諾したものの自己にとつては一人息子である被控訴人を甲野家のいわゆる婿養子にすることに当初から抵抗を感じていたこともあつて事あるごとに控訴人との同居に反対し、一方控訴人の母シズはかかるタミヨの態度及び同女を説得もせずまた控訴人との同居に努めようともしない被控訴人の態度に立腹し同人らに対しその不実をなじるような手紙を再々差出したことがあり、これらのことからタミヨ及び被控訴人とシズ及び控訴人との間に自ずと阻隔を生じ、日時の経過とともにそれが次第に拡がつていつたこと、
13 このようにタミヨが控訴人との同居を拒むため、控訴人、被控訴人は依然として別居を続け、タミヨが専ら被控訴人の身の廻りを世話し、家事一切を担当していたが、タミヨは当時既に七四歳で体力も衰え、何かと不便を来たしていたため昭和二八年頃から被控訴人方の近隣に住み美作短期大学の生徒であつた丙川二三子が足繁く被控訴人方を訪れ、タミヨの買い物や家事を手伝うようになつたが、同女と被控訴人との交際には、単に手伝というにはいささか埓を越えたものと認められるものがあつたこと(なお被控訴人はこれより前の昭和二七年当時美作短大の学生であつた美山某女を約三ケ月間に亘り同居させ、また昭和二九年一〇月頃には同じく学生であつた河田美子を同居させていたことがある。)
さらに被控訴人は昭和二九年頃岡山大学文学部矢野万里教授の紹介で津山市において津山商業高等学校の教諭長野三津子を含む高校教師等数名と英文学の輪読会を開いていたが、当時別居していた控訴人が被控訴人の友人等に被控訴人と長野三津子の交際状況について執拗に尋ねたことがあり、また控訴人の母シズが控訴人の身を案ずる余り、控訴人には無断で被控訴人や長野、矢野教授、吉野鉄夫らに対し被控訴人と長野の関係を糺問難詰するかのごとき書翰を差出したため被控訴人や長野らはシズが控訴人と意思を通じて右のような所為に出たものと立腹し、矢野と共に控訴人を訪ねて激しく抗議し謝罪を求めたこと、しかし控訴人としてはシズが控訴人には無断で前記行為に出たものであり、やましいところがないとしてこれを拒絶したこと、
14 前記のごとく被控訴人が津山市において美作短大助教授に就任したため、控訴人は被控訴人には徳島市に帰郷する意思がないものと判断し、津山市において被控訴人と同居しようと考えたが、経済的事情も存したため、岡山県での教職就任斡旋方を被控訴人に依頼したところ被控訴人は極めて熱心に控訴人のために就職運動を行い、その結果控訴人は昭和二九年四月一日以降岡山県の教員となり同日以降昭和三一年三月三一日までは県立新見高等学校に、同年四月一日から昭和三四年三月三一日までは県立日本原高等学校にそれぞれ教員として勤務し、なおその間昭和二九年八月頃からは津山市内においてタミヨの反対を押切つて被控訴人との同居生活に入つたこと、しかし同年一〇月頃から前記のとおり河田美子が被控訴人方で同居するようになり、控訴人のみが食卓を別にさせられるようになつたこともあつて従前からあまりよくなかつた被控訴人の母タミヨとの折合いは益々悪化し日夜暗黙の争いを続けるような状態になり、これに伴つて被控訴人との夫婦関係も次第に冷却していつた。
15 かくするうち控訴人は、津山市から新見市にある新見高等学校への通勤に長時間を要したこと等が原因で次第に健康を害するようになり、昭和三一年四月から入院を余儀なくされ一時退院したものの昭和三三年三月頃から昭和三四年三月一六日まで腎災・蛋白尿症で再度入院を余儀なくされたが右二度に亘る入院中被控訴人は一度見舞に訪れただけで控訴人に対し経済的な援助を全くしなかつたこと、
16 前記のように被控訴人は美作短期大学助教授として勤務していたが昭和三三年四月頃明治大学の教授をしていた江島祐二から誘いがあつたため、当時入院中の控訴人やシズには全く無断で母タミヨ及び前記河田美子を伴つて、上京し、同大学の非常勤講師となり東京都杉並区に居を構えたこと、
17 そして被控訴人は昭和三四年三月頃明治大学の助教授に推せんされ同年四月一日正式に発令されたが、これより前の昭和三三年一一月一三日頃には同大学の教授である江島祐二に対し、また翌三四年三月一二日頃には同大学総長松岡熊三郎及び同大学教授の飯島隆に対し、控訴人の母シズがいずれも「被控訴人が病気療養中の妻である控訴人を放置して顧みず、また控訴人の人格を無視して度々他の女性と交際を続け、妻を遺棄して東京へ逃避し、反省を求めても顧りみない不徳義漢である」趣旨の手紙を発信し、このことが同大学の理事会においても問題とされたりしたため、被控訴人はいたく憤激しシズに対し手紙で強く抗議するに至つたこと、
18 控訴人はシズが右総長宛の手紙を発信した当時は未だ腎炎・蛋白尿等で入院中であつたが、徳島市に帰郷し被控訴人の前記抗議の手紙を見て一部始終を知り驚くと共に早速被控訴人に対し母シズの無礼を詫びかつ控訴人は被控訴人に女性関係があること等の疑をもつていないと釈明し、さらに母シズを強くいさめた旨述べていること、被控訴人もシズの前記行為は同人の独断によるものであつて控訴人はこれに全く関与していない事実を了解していたこと、
19 その後控訴人は昭和三四年三月に日本原高等学校を退職して被控訴人と同居すべく上京し直ちに被控訴人に対し同居を求めたが拒否されたためやむなく事態の好転を期して別に居住し、その後苦心の末昭和三六年四月東京都内において高等学校教員の職を得被控訴人との婚姻生活の回復継続を望んでいること、そして右教員の職を得るまでの二年間控訴人は精神的にも経済的にも多大の苦労をしたが、その間は勿論その後明治大学助教授、教授として次第に経済的な余裕が生じたにもかかわらず、今日に至るまで被控訴人は控訴人に対し夫としての協力扶助の義務を尽していないのは勿論何らの援助もしていないこと、
20 そればかりでなく、被控訴人は昭和三四年三月頃から水木五郎の紹介でかつて岡山療養所入所中に顔見知となつていた水木高子と交際をはじめ、同年八月一二日から一五日まで同女と連れだつて長野県に旅行し同月一二日から同女と情交関係を結び以来これを継続し、昭和四五年頃から同女と東京都国立市富士見台三丁目五番地の三の現住所において同棲していること、
21 そして被控訴人は昭和三三年六月頃から控訴人に対し離婚を求め、昭和三四年秋頃離婚をはかるべく東京家庭裁判所八王子支部に夫婦関係調整の調停申立をしたが、協議が整わず調停は不調となり、現在被控訴人は控訴人との婚姻関係を維持する意思が全くないこと
以上の事実が認められる。<証拠判断略>。
二前記認定事実によると、控訴人と被控訴人との本件婚姻関係は被控訴人が美作短期大学の助教授に就任した頃から次第に和合を欠くようになり、昭和三一、二年頃には被控訴人が控訴人を疎んじて更に冷却し、被控訴人が上京した昭和三三年頃には殆んど破綻に近い状態になり、控訴人の母シズが明治大学総長等に被控訴人を非難する手紙を出したこと及び被控訴人が水木高子と情交関係を結んだことにより昭和三四年中には完全に破綻し、右破綻の状態は爾来二〇年以上に亘り継続していて現在では全く回復不能の状態にあるものというべきである。
そこで、事ここに至つた原因について考えてみるのに、被控訴人は、まず、被控訴人と控訴人との婚姻関係は、相互の信頼と愛情によつて結ばれたものではなく、被控訴人の一方的感傷ないし同情によるものであつて、その当初から円満さを欠いていた旨主張するが、前認定の4ないし7の事実によると、被控訴人と控訴人の婚約と事実上の婚姻は、相互の充分な理解のもとになされたものと認められ、更に前記8ないし11の事実によれば、被控訴人と控訴人は、双方の家庭の事情から同居生活を営むことこそできなかつたとはいえ、その生活は円満なものであり、特に被控訴人の発病後における控訴人の物心両面に亘る献身ぶりは、各家庭の事情及び当時の食糧事情、交通事情等に照してまことに健気なものであつたと認められるから、被控訴人の右主張は到底これを肯認することができない。
被控訴人は、更に、控訴人の性格を云々して妻としての適格を欠くものであり、かつ、その行動により被控訴人の人格、名誉を傷つけたことが破綻の原因である旨主張する。控訴人が、かなり自己中心的な性格で、自我が強く、協調性に欠けるところがあることは、本件訴訟の経緯に照して明らかなところであり、また、前記13に認定したところからすると、控訴人が長野三津子と被控訴人との関係を憶測してとつた行動・態度には多少度を越したものがあり、ために被控訴人が人格・名誉を傷つけられたと感じ、また、相手方である長野に相当ならず迷惑を及ぼしたであろうことは想像に難くないけれども、前記11ないし14に認定した、被控訴人が津山市に居住するに至つてからの同人及びその母タミヨの行動を考えると、その頃からきざし始めた本件婚姻関係の冷却化(そしてそれは右関係の破綻へとつながるものであるが)の原因のすべてを、控訴人の性格や当時同人がとつた行動・態度のみに帰せしめることはできないものというべきである。
かえつて、前認定の事実によれば、本件婚姻関係の破綻について主として責を負うべきは、被控訴人であると考えられる。即ち、まず第一に、被控訴人は昭和二六年一〇月岡山療養所を退院し一応社会生活が可能となつたのであるから、控訴人との婚姻関係を再開する機会に恵まれたといえるうえに、昭和二七年一〇月一〇日には婚姻の届出までしているのに、控訴人との同居を肯んぜず、その期間は昭和二九年八月頃までの約三年間に及んだことである。尤も、当時被控訴人の母タミヨが控訴人との同居に反対し、また、控訴人の母シズと被控訴人及びタミヨとの間に種々葛藤のあつたことは事実であるけれども、これらの事情が、被控訴人にとつて解決困難なものであつて、右のような長期間にわたり控訴人との同居の障害となるものであることを認めるに足りる的確な資料は何もないから、結局被控訴人は、その間、夫として尽すべき義務を果さず、荏苒日を過していたものとの誹りを免れまい。しかも、控訴人との同居後の状況が前記14に認定するようなものであつてみれば、なおさらのことである。つぎに、被控訴人は昭和三三年四月頃母タミヨを伴つて上京し、東京都杉並区に居をかまえ、明治大学に就職するのであるが、右について被控訴人は、控訴人の諒解を得ることはおろか一言の断りもしていないことである。そして、当時控訴人は前記15のとおり病気療養中であつて、肉体的にも精神的にも弱つており、何よりも夫である被控訴人の援助を必要とする状態であつたのであるから、被控訴人の右行動は、夫としての義務に著しくもとるものであると言わざるを得ず、しかも、本件に現れたすべての証拠によるも、被控訴人がかかる挙に出たことを正当化するに足りる事情は遂にこれを認めることができないのである。そもそも、被控訴人のとつた前記のような行動は、本件婚姻関係の完全な破綻を前提としてはじめて正当化し得るものであるところ、右当時本件婚姻関係は冷却化の途にあつたとはいえ、未だ破綻しておらず、しかも冷却化の原因の多くは被控訴人の責に帰すべきものであつたことは、既に認定判断したとおりであるから、被控訴人の右行動は、本件婚姻関係の破綻について少なからざる原因力をなすものというべきである。さらに被控訴人は、前記20のとおり、昭和三四年八月一二日頃から水木高子と情交関係を結ぶに至つたが、当時控訴人は前記19に認定するとおり岡山県での教員生活を打切つて被控訴人と同居すべく上京し、被控訴人にこれを拒否されたものの、なお事態の好転を待つている状況にあつたことを考えると、被控訴人の右の所為が、本件婚姻関係における信頼関係を裏切るものであることはいうをまたない。
元来、婚姻関係は完全ではあり得ない男・女の共同生活である以上、被控訴人と控訴人との本件婚姻関係の破綻についても、控訴人に全くその原因がないとはいえず、これまでに認定判断したところよりして、控訴人もまた右破綻についての責の一端を荷うべきことは、これを否定し得べくもないけれども、被控訴人が破綻の原因として主張するところがいずれも理由がないこと既に認定判断したとおりであり、かえつて被控訴人には右に採上げた三つの事実があり、そのすべてについて被控訴人が責を負うべきものと判断される以上、本件婚姻関係の破綻について、主として責を負うべきは、やはり被控訴人であると言わざるを得ない。なお、前記17認定の控訴人の母シズが明治大学総長らに差出した書翰によつて被控訴人の名誉と自尊心が傷つけられたことは否定し得ないけれども、右書翰の発信はシズが独断でしたものであつて、控訴人のあずかり知らぬところであることは右に認定するとおりであるからこの点をとらえて控訴人を非難することは相当でないといわなければならない。
三以上のとおりであつて、控訴人と被控訴人との婚姻関係の破綻について主として責任を負うべきものは被控訴人であるから、被控訴人から右破綻を理由に控訴人に対して離婚を求めることは許されない。従つて被控訴人の本件離婚請求は理由がなく棄却を免れない。
四従つて、これと結論を異にし控訴人の請求を認容した原判決は不当であつて取消すべきものである。よつて、訴訟費用の負担につき民訴法三八六条、九六条、八九条を適用して主文のとおり判決する。
(川上泉 奥村長生 福井厚士)